『坂』と建築 江戸の『坂』とは? 名前の特徴 言葉としての『坂』 概観した時の『坂』

 


  • 坂とは?
    広辞苑を引けば「一方は高く一方は低く、傾斜している道」とあります。
    坂は段差のある空間を結びますが、断崖とは異なり、必ず道があります。

    道は、古くからの人間の社会活動と関係してきます。
    昔、人間の活動は徒歩が主でした。経済活動で人々の交流が盛んになると、街道や道が整備されるようになります。古代ローマでは軍隊が街道を整備しました。
    「すべての道はローマに通ず」は、やり方は、違っても目的は、同じことを意味することわざです。
    道という言葉には、目的を達成する経過、途中といった意味も、残っています。
    ですから例え傾斜のある道でも、私道や歴史的背景のない坂には、名前が無いのです。

    坂とは登り坂でもあり、下り坂でもあります。
    坂道と言われて、連想するのはどちらでしょうか?
    はっきりした答えは要りません。なぜなら共に正解なのですから。
    こうした矛盾するふたつの面相が同居する、不思議な空間ですし、対立する存在によって初めて片側も認識できるのは、ある意味で東洋的な物の見方です。

    「登り坂は下り坂であり、下り坂は登り坂である。」
    禅問答のようですが、坂には、平坦なる道とは異なる魅力が幾つも見つけられるのです。

  • 坂の魅力:空間的
    坂と名前を冠するものは、人の生活に溶け込んでいる道へちょっとしたアクセントを加えます。
    道の移動は概ね水平的な移動で、視点もまっすぐに固定されていますが、坂は違います。
    坂を登るのを例にすれば、登る時にどこを見ているでしょうか?
    足元ですか?
    目の前ですか?

    視点を水平にすれば目の前は地面ですが、道なりに顔を上げて歩いてみます。
    そうすれば目の前の坂の上には空が見えたり、坂の上の町並みが徐々に現れてきます。
    ただ歩いているだけなのに、短い時間の間に視界は一変します。
    高層住宅にでも住んでいない限り、生活の中で街並みを一望することはありません。
    家から、職場から眺める景色はいつも同じです。
    ところが、坂道では、眼の前の風景は刻一刻と千変万化し、今まで見ていた場所を自分が歩く、不思議な感覚さえ訪れます。

    坂の上から見下ろした時、道がまっすぐ伸びていれば、空間的な広々とした奥行きを感じ、爽快感がもたらされ、自らの苦労の終結を意識します。
    逆に坂道を登れば、徐々に見えてくる光景により、またその先に広がる光景への期待感が生まれるのです。

    現代は高層建築からの眺望も安易に得られる時代ですが、
    平屋建ての江戸時代であれば、江戸を歩いていても目前には家屋が軒を連ね、周りの風景は常に単調でしょう。
    ですから坂を上り坂上に立った時、町並みを見下して、その眺望からもたらされる感動は、想像以上にとても大きかったのでは思われます。

  • なぜ坂か?
    それは、会社周辺に数多く存在する坂への関心が始まりでした。
    坂の歴史や由来を調べるうちに、坂の名前が江戸時代に数多くつけられていること、坂に関する文献が予想以上に多かったこと、そして坂が建築に関して並々ならぬ効果を及ぼしている事実に魅せられました。
    建築物を作ることが私どもの使命です。
    永遠に使われるのが理想ですが、残念ですが、もちろん形あるものには、それなりの寿命というものがあります。

    しかし、江戸の人たちが歩いて道とした「坂」は、多少形を変えても、日々の生活の中で、残り続けています。
    江戸の面影は、今も私たちのすぐ側にも見出すことができるのです。
    都市の街並みが変わり、眺める光景は変化しても「坂」を歩く人たちの目的や気持ちは、常に似たようなものでしょう。
    時は流れても、坂を一心不乱に登るとき、また、駆け下りるとき、私たちも江戸の人達と同じように、その坂に意識されずに影響を受けています。
    私たちはこの今も残る「江戸の坂」を通して、江戸、東京という1つの大都市の歴史の中で生き続けてきた人々の歴史といった大きな営みを感じとり、何らかの感慨を覚えます。
    都市建築の立場からも、坂は魅力ある題材として見直されています。
    建築物が街並みを作るのではなく、街並みの中に、人々の暮らしの中に建築物を作るのです。

    それでは皆さん、『江戸の坂』の世界をご一緒に歩いてみましょう。
    まず、登ってみますか?
    それとも下ってみますか?


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現在、江戸時代の坂と呼ばれるものは、概ね江戸時代に名前がつけられた坂のことです。
東京には概算で3000の坂があると言われていますが、中村雅夫氏の調査(『東京の坂』晶文社刊行)によれば、名前がついているのは547、江戸時代に命名されたものは300くらいだそうです。
なぜ江戸時代にこれほど坂が多く名づけられたのでしょうか。
 
その理由として住環境の変化があげられます。
首都として急膨張して人口が増大した江戸は、大名屋敷の建設等で大規模な宅地開発の必要に迫られました。
河川の多い下町は、湿地帯で氾濫する可能性が高かったので、また江戸城への距離を考えて、城の西側にあたる今の山の手部分を切り拓き、宅地を造成しました。もちろん下町も同じく開発され埋め立てられて結果、多くの川が残りました。
 
「山手の坂、下町の川」と東京のことを表現しますのも、そういった背景があるからなのです。
坂の山の手ですが、山であった部分に屋敷が建てば人が周囲に住み始めて、道が必要になります。
こうして山道は坂という形になりました。
区画整理や住所に関する概念が現代ほど無い時代ですから、目印として坂は非常に重宝しましたので、江戸っ子から名前をつけられたと言われています。
 
東京は広いですが、名前のある坂道は現在の都心部に集中しています。
江戸時代の記録や記憶も、時を経て、残っているのは、ずっと繁栄し続けてきた箇所だというわけです。
江戸城周辺の山の手に名前を得た坂道が集中するのは、そこに名前をつける人たちがいただけではなく、それを受け継ぐ人たちが今もいるからなのです。

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名前をつける規則は、『歩いてみたい東京の坂』(三船康道監修・地人書館)によれば、以下に大別されます。

  1. 風景にちなんだ名前(坂から見える風景をつけた名前)
    ・富士見坂、潮見坂
  2. 地名にちなんだ名前(町名や山、田になどの名前をつけた)
    ・御厩谷坂、樹木谷坂
  3. 寺社や地蔵尊にちなんだ名前(坂のそばの神社や寺、地蔵尊などの名前をつける)
    ・八幡坂、天神坂、稲荷坂、氷川坂、善光寺坂
  4. 人にちなんだ名前(坂のそばに住んでいた人の名前)
    ・南部坂、紀尾井坂、北条坂、ゼームス坂
  5. 形状や雰囲気にちなんだ名前
    (急勾配や石段などの坂の形状や、薄暗い状況などの雰囲気の名前をつけた)
    ・高坂、団子坂、暗闇坂、胸突坂
  6. でき方に ちなんだ名前
    (新しい坂や、坂と坂の中間にある坂などのように、坂のでき方の名前をつけている)
    ・新坂、中坂、切通坂、鍋割坂
  7. 周辺にちなんだ名前(坂の周辺の土地の使い方を名前につけた)
    ・芥坂、鉄砲坂、幽霊坂
  8. 将軍の命名による名前
    ・昌平坂
  9. 対となる名前
    (向かい合っている坂や平行な坂に、ふたつ揃ってはじめてひとつの意味になる名前をつける)
    ・鼓坂、向坂、男坂と女坂、飛坂
  10. その他(めぼしいものがない場合、周辺の樹木や動物にちなんだ名前をつける)
    ・一本松坂、狸坂、蛍坂

私たちが日常で待ち合わせ場所を指定するとき、あまり坂を基点とはしません。
現代ではそれ以上にわかりやすい「固有名詞」を持った所は幾らでもあります。
しかし、昔は今ほど区画整理もされておらず、住所がありませんでした。
江戸の街並みはどう考えても超高層住宅が無いのですから、平屋が続きます。
個性的な建物を作り上げるだけの材料も、そして際立つ塗料もなかったでしょう。

そこで空間的な高さを持つ、平面から飛び出た坂は格好の目印となります。
目印となれば名前が必要ですし、場所としても覚えやすいので、自然と人々の口の端に上るようになります。
こうして江戸の街と坂を切り開いた江戸っ子は命名しますが、主観によって物事の印象は大きく異なるので、数多くの名前を持つ坂があるのも不思議ではありません。

ただ、江戸時代の人がそう呼んでいた習慣的な名前を、現在、地図などを書き上げる際に唯一の正式名称として選んだ人は誰なのか?は、わかりませんでした。坂の本を数多く読みましたがその視点が欠けていました。

坂に立っている木の杭は、今回取材した新宿区に関しては「東京都新宿区教育委員会」と銘打たれていますが、杭に書かれている解説を担当しているのか、坂の名前を承認しているのか、わかりませんでした。

その坂の名前がどこで公式決定されているのか、誰がどのように決定しているのかを取材してみるのも面白いかもしれません。
多分、公の機関(建設省?)当たりなのでしょうが、どういう根拠で決定されたか、興味がありますね。


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『坂・阪』……一方は高く一方は低く、傾斜している道。(『広辞苑』)
「さか」の漢字は2種類あります。
 
第1に「つちへん」の「坂」です。この「坂」は土地が傾斜していると言う意味を持っています。
第2は「こざとへん」の「阪」です。こちらの「阪」は土山の傾斜面と言うことで、意味としては「坂」と同じですが、「大阪」等、今では地名として常用されているに留まります。
 
「坂」から連想される言葉はいろいろとありますが、坂に対して畏敬の念や恐怖に似た感情を昔の人が抱いていた記録が多く残っています。
視点が変わることは現世と異世界の境界線を越えると思われていました。
有名な小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の書いた紀尾井坂を舞台にした『むじな』では、のっぺらぼうに出会います。坂を歩く時、目の前を見ていると自分の進む足元しか見えず、視界が狭まり、不安になります。
 
同じ怪談話では『番町皿屋敷』『東海道四谷怪談』『怪談牡丹燈籠』が有名ですが、それぞれ関連する坂があります。『皿屋敷』では『帯坂』、『四谷怪談』では『女夫坂』、『牡丹燈籠』では『三崎坂』界隈を舞台としています。
幽霊坂と呼ばれる坂は8箇所もあり、坂はそれだけ潜在的な恐怖感を煽る場所でした。

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江戸時代の坂の特徴として、高い位置には大名屋敷や上位役職者が居を構え、坂の途中には家臣などの武家屋敷が建設されていました。高さが精神的な優越感や、何かしらの畏敬の念を抱かせるのは洋の東西を問わず同じです。御寺や神社を参詣する際には、常に階段を上ります。神聖な場所は必ずといっていいほど高い場所にあります。
 
他人を軽蔑する言葉は「見下す」ですし、上位者を示す「目上」も、高い位置にあるものが優勢であることを語っています。話を戻せば、御家人以下の組み屋敷は、条件の良くない谷あいや窪地、湿地へ作られる傾向でした。
 
今回取材した鉄砲坂は高台へと通じていましたが、昔はその崖下辺りが湿地帯だったとのことで、鉄砲を司る御家人たちの組屋敷がありました。
江戸時代に誕生した坂は宅地造成によって拓かれました。同じ理由で坂は姿を変えたり、消していきます。
 
明治時代、東京と名を改め、土地事情がより現代に近くなってくると、傾斜が急であれば住みやすいように削られたり、平坦にされてしまいました。
江戸時代の都市創生に似た大規模な坂への圧力は明治の鉄道建設と、東京オリンピックの大規模な都市開発の二度だけだと言われています。鉄道は平坦な道しか走れませんから、多くの坂が形を変え、また消えました。同じく、東京オリンピックでも都市の交通量増大は急務ですから、交通の便を優先して、坂の形は崩されました。
 
しかし、わずか1世紀の間に2回もあったと考えることも出来ますが、歴史を動かす大きな転換点で無い限り、いつまでも坂は都市の中で生き続けます。東京大空襲で人々の家が焼失しても、坂は命脈を保ったのですから。
------------------それでは、江戸の坂を探訪してみましょう。

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大給坂・狸坂 動坂 団子坂 新坂(S坂・権現坂) 弥生坂
相生坂 赤城坂 坂町坂 焼餅坂 夏目坂
軽子坂 神楽坂 浄瑠璃坂 鰻 坂 一口坂
帯 坂 念仏坂 津の守坂 戒行寺坂 鉄砲坂

 


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